2016年12月2日金曜日

第104話「男のメンツ」

「こんな時間に独り歩きは危険だよ」

駅の改札を抜け、Y氏は女を気遣った。

「心配しないで。もう、ここでいいわ」

「いや、そうはいかない。俺が家まで送るよ」

Y氏の心は穏やかではない。既に時刻は夜の11時を過ぎている上に、この辺りは特に

物騒な地域でもある。

「大丈夫よ。家は直ぐそこだから」

「でも...」

Y氏は男のメンツを保つべく、女に付き添って歩く。すると前から強面の男が近付い

てきた。

「おう、なかなかイイ女を連れているじゃないか」

男はドスの利いた声を放ち、女に手を掛けようとした。

「やめろよ」

Y氏は声を震わせながらも勇敢に立ち向かう。しかし男の力が勝った。

「いい加減にしろや」

開口一番、女が男を締め上げた。

2016年11月25日金曜日

第103話「身の上話」

Y氏の携帯に女から連絡が入った。

「ねえ、私ともう一度だけ会ってくれないかしら」

Y氏は先日、女と別れたばかりである。二股をかけられたY氏の方が女に愛想を尽かしたの

だ。

「お前とやり直す気はないが、会うだけならいいだろう」

どうやら女はY氏に未練があるらしい。Y氏は女の要求を呑んだ。

そして数日後...

「やっぱり、私にはあなたが必要だわ。だから、もう一度やり直して欲しいの。実は私...」

女が涙ながらに辛い身の上話を始めると、Y氏は同情の顔色を浮かべて女の話に聞き入っ

た。

「話は、それで終わりか」

「ええ、そうよ。ごめんなさい、つい気持ちが高ぶってしまって...」

「それにしても、よくできた作り話だな」

2016年11月18日金曜日

第102話「郵便物」

郵便局の窓口に、二通の封筒を手にした客がやって来た。

「これ、各駅でお願いします」

客はそう言って、一つの封筒を局員に差し出した。

「各駅ですか。各駅...、普通便という事でしょうか?」

局員は戸惑いながら客の意向を確認する。

「そういう事です。出発進行!」

客はそう言って、車掌の真似をしてみせた。

「かしこまりました」

次に客は二つ目の封筒を取り出し、そして局員にこう言った。

「こちらは、特急でお願いします」

「特急...、速達便という事ですね」

「その通りです。出発進行!」

客は又しても車掌の真似をする。

その様子を見兼ねた母親が、局員に申し訳なさそうに言った。

「すみません。この子は大の電車好きなものですから...」

2016年11月11日金曜日

第101話「消したい記憶」

―あんな記憶は、真っ白に消し去ってしまいたい―

Y氏を苦しめる悪夢の様な記憶。

三年前、Y氏の自宅が全焼した。焼け跡からは、見るも無残に変わり果てた妻と子供が発見

された。その光景はY氏の脳裏に深く刻み込まれ、未だに消える事はない。

以来、Y氏は深い悲しみの縁から抜け出せないでいるのだ。

そんなある日、Y氏は何時もの様に暗い表情ををして公園のベンチに腰掛けていた。目の前

では見知らぬ女と子供が楽しそうに戯れている。

すると突然、女はY氏に声を掛けた。

「何か悲しい事でもあったのですか」

「実は、三年前に妻と子供を亡くし...」

「消し去りたい記憶ですね」

「はい」

女は珍しい消しゴムを取り出し、Y氏の額をこすり始めた。

2016年11月4日金曜日

第100話「スルメ男」

―俺は結婚できるだろうか―

Y氏は物思いに耽りながら、好物のスルメを酒の肴にビールをグイッと飲み干した。

Y氏は今年で四十歳になる。真面目で誠実、見た目も悪くないのだが未だに独身なのだ。結

婚するには十分に値する男なのだが...

Y氏は友人から、こう告げられた事がある。

「お前は奥深くて掴み所の無い人間だから、理解するには骨が折れる。それが結婚相手の見

付からない理由さ。早い話が、お前はスルメ男だよ」

そんな話を思い出しながら、Y氏はスルメをつまんで口に入れた。

―スルメ男とは上手く言ったものだ―

やけに感心しながら、Y氏はスルメをじっくりと噛みしめる。

スルメは口の中で、噛めば噛むほどに味わいを増し...


2016年10月28日金曜日

第99話「腹痛」

日の出スーパーはとにかく安い!その上、24時間営業だから有り難い。そんな事でY氏は日

の出スーパーの常連客だ。

ただ、一つだけ問題があった。日の出スーパーの食材でY氏は時々腹痛を起こすのだ。

それは弁当や総菜などの値下げ商品でよく起こる。古くなって痛んだ食材も、濃い味付けで

誤魔化せば何とか商品にはなる。そこへ値下げとくれば、つい手が伸びてしまう。

―安い分だけ物が悪いのだから仕方がない―

Y氏は腹痛を起こす度に、そう思って自分を納得させた。

しかし、ここ最近は頻繁に腹痛を起こしている。さすがにY氏も尋常ではいられない。

そこである日、Y氏はぶしつけに店員に言ってみた。

「正露丸は売っていますか?」

2016年10月21日金曜日

第98話「俳優生命」

二世俳優のY氏は父を亡くした。すると父のコネによる恩恵を失い、忽ち仕事が激減した。親

の七光りとはそういうものだ。

そんな時、父の親友でもあった映画監督がY氏に声を掛けた。

「俳優生命を賭けて、俺の映画に出てみないか」

Y氏は監督の助け船に乗った。

その後、撮影は順調に進んでラストシーンを迎えた。刑事役のY氏が、ロシアンルーレットで

命を懸ける場面である。

「生死の確立は二分の一だ。さあ、引金を引け」

マフィア役に促され、Y氏はピストルをこめかみに当て...

映画は封切りと同時に話題となり、特にラストシーンに見るY氏の迫真の演技は非常に高い

評価を得た。

使用されたピストルには実弾が込められ...

2016年10月14日金曜日

第97話「完全犯罪」

数年前、Y氏は隣人と些細なトラブルを起こした。以来、Y氏は隣人への憎しみを募らせ、遂

に決心した。

―隣人を消そう―

こうしてY氏は完全犯罪を目論み、ある計画を推し進めた。

そして一年が過ぎた。

―これで準備は整った―

季節は夏、時刻は夜半を過ぎた。隣人は既に寝静まっており、開け放たれたベランダの窓を

覆うレースのカーテンが夜風に揺られていた。

すると、そこへ一匹の蚊が舞い込んで来た。蚊は空中を漂うと、やがてカーテンをすり抜けて

部屋の中に入り込んだ。

血に飢えていたのか、蚊は寝息を立てる隣人を見付けるや否や、その首筋に吸い付いた。

―これで毒針の餌食だ―

Y氏は飛行士さながらにハンドルを握り、超小型カメラの画像を見つめていた。

2016年10月8日土曜日

第96話「籠の中」

―こうなったら、強盗するしかない―

アキラは金に困り果て、隣に住む一人暮らしの老婆に目星を付けた。

「おばあちゃん、少し話があるのですが」

「あら、アキラ君。どうぞ中へ」

老婆が快くアキラを迎え入れる。すると、アキラは用意していた紐を老婆の首に巻き付けた。

「アキラ君、何をするの。アキラ君、アキラ君...」

部屋に吊るされた籠の中の鳥が騒ぎを聞いてパタパタと暴れ出す。

やがて老婆は息絶えた。そして、アキラは何一つ証拠を残さないように慎重かつ速やかに事

を成し終えた。

数日後、アキラの家に警察官がやって来た。

「隣の老婆殺害の犯人は、お前だな」

寝耳に水である。アキラは証拠を残していない。だが、籠の中には一羽の九官鳥がいて...。

2016年9月30日金曜日

第95話「透視力」

ドクターKは遂に透視薬を完成させた。

「先生、素晴らしい発明です」

「確かに。では、さっそく効果を試してみよう」

ドクターKの見守る中で、助手は透視薬の一錠を服用した。

「先生、驚きです。先生の服が透けて見えます」

「では、もう一錠」

助手はドクターKに言われるままに、二錠目を服用した。

「先生、今度は壁の向こうまで透けて見えます」

「なるほど。ではもう一錠」

こうして助手は透視薬を服用する毎に、どんどんと透視力を高めていった。

「どうかね、君はもう三十錠を服用しているが...」

「先生、これは究極の透視力です。全てが透けて何も見えません」

「研究は大成功だ!」

「ところで先生、視界を元に戻す薬はあるのですか?」

「これから研究する」

2016年9月23日金曜日

第94話「盗撮」

ある日、Y氏の盗撮行為が発覚した。

「申し訳ありません。二度とこの様な事は...」

Y氏は深く反省して何とか事なきを得た。

だが数日もすると、再び盗撮の虫が騒ぎ始める。

―何か上手い盗撮の方法はないか―

Y氏は妙案を思い付き、あるドクターに相談を持ち掛けた。

「分かりました。手を尽くしてみましょう」

ドクターはY氏の相談を受け入れた。

その後、Y氏は性懲りも無く盗撮を繰り返した。しかも発覚の心配は無い。

「いかがですか、最新型カメラの具合は」

Y氏の手術から一週間後、ドクターはY氏に問いかけた。

「先生、驚きです!私の目がカメラになるなんて。しかも瞬きひとつで操作できるのですから」

あなたは撮られているかもしれない。誰かが瞬きをした瞬間に...。

2016年9月16日金曜日

第93話「歯痛」

ある金曜日の夜中に、Y氏の虫歯が突然うずき始めた。

家にあった痛み止めの薬を飲んで直ぐに治まったが、数時間で薬が切れると再び痛み出す。

そして又薬を飲むという応急処置を繰り返している内に、やがて薬が効かなくなってしまった。

―困ったものだ。土日は歯科医が休みだし...―

やがて痛みは激痛へと変わっていく。そこでY氏は薬を大量に服用し、更に歯痛に効くツボを

刺激して何とか痛みを紛らわした。

しかし遂に...、日曜日の夜になると痛みは我慢の限界に達した。

―もう、痛くて死にそうだ―

そして眠れない夜の果てに、ようやく迎えた月曜日。Y氏は開業時間に合わせ、すがる思いで

歯科医に直行した。ところが...。

「嘘だろう」

今日は祝日の月曜日だ。


2016年9月9日金曜日

第92話「親切な女性」

夏の炎天下、道端でうずくまっていたY氏に、偶然居合わせた年若い女性が声を掛けた。

「大丈夫ですか。熱中症かもしれません」

女性はY氏に付き添い、適切な処置を施した。そして、三十分もするとY氏は回復した。

「本当に助かりました。せめてお礼だけでも...」

「気にしないで下さい。私は通りすがりの看護師ですから」

女性はそう言って立ち去った。

それから数年後、Y氏はとある歓楽街を歩いていた。

「少し遊んで行きませんか?」

呼び込みに誘われ、Y氏は店内に案内された。

「いらっしゃいませ」

薄明かりの下で、ナース衣装の女が艶めかしくY氏を迎え入れる。

「あっ、あなたは、あの時の...。なぜ、こんな仕事を」

「これも、白衣の天使の仕事ですから...」

2016年9月2日金曜日

第91話「余命」

「お母さん、今日はいい天気ね」

K子が優しく声を掛ける。小春日和の下で、K子は車椅子を押しながら桜の並木通りを歩いて

いた。

母は余命半年の宣告を受けている。まだ四十八歳の若さだ。母はK子を出産して直ぐに離婚

し、女手一つでK子を育てた。そしてK子は一流企業に就職を果たした。

だが、ようやく母の肩の荷が下りた矢先に...。

ーずっと母のそばにいようー

母の余命宣告を聞き、K子は仕事を辞めて母の看病に専念した。それが最後の親孝行にも

なる。

「本当にいい天気」

母がそう言って空を見上げた時、いきなり乗用車が車椅子に突っ込み...。

「お母さん!」

母の死を悟ったK子。

ーいくら償ってもらえるかしらー

K子は薄ら笑いを浮かべながら、算盤をはじいた。

2016年8月26日金曜日

第90話「声」

その夜、Y氏と後輩は一台の車に乗って廃病院に到着した。二人は今日からこの場所で、見

張り役の警備を任されたのだ。

「先に君が入り口で見張りをしてくれないか。一時間経ったら交代しよう」

Y氏はそう言って車に残り、後輩は入り口に向かった。静寂の中で夜が深まって行く...。

やがて一時間が経ち、Y氏は車を降りて入り口へと向かった。

「交代の時間だ。何か異常はないか」

「はい、今のところは」

「先輩、それにしても気味が悪い場所ですね」

「確かに」

「ここで何かあったのですか」

「実は...、人がよく自殺している」

その時、二人はブルッと身震いし、そして自分たちの耳を疑った。

何処からともなく聞こえてきた第三者の叫び声...。

「早く見付けろよ」

2016年8月19日金曜日

第89話「女神」

警備員のY氏は、今日が某ビルディングでの最後の勤務だ。

Y氏には唯一の心残りがあった。Y氏と顔を合わせる度に、何時も感じの良い挨拶をするオフ

ィスレディがいる。せめて最後に一言をと思っているのだが...。

いつもの通りY氏がフロアーを巡回していると、偶然にも一人でエレベーターを待つ例のオフィ

スレディがいた。女神の粋な計らいであろう。

「私、今日が最後なのです」

Y氏が初めて声を掛けた。

「えっ、せめて連絡先だけでも教えていただけませんか」

思いがけない返答。人目に触れる前に、Y氏は急いでメモ帳に電話番号を記そうとした。しか

し途中でボールペンのインクが切れ...。その途端、満員のエレベーターが開いた。

ーとんだ悪戯だなー

Y氏は女神に失望した。

2016年8月12日金曜日

第88話「代弁」

Y氏の先輩に谷木という男がいる。谷木の楽しみは酒と博打、そして同僚の悪口を吹

聴する事だ。全く、しがないオヤジの悲しき末路と言えよう。

「谷木のオヤジ、早く定年退職しないかな」

同僚たちは口々に言った。

そんなある日、天の制裁が下る。谷木が咽頭癌で余命宣告を受け、自宅療養を始めた

のだ。Y氏は内心で喜びつつ、社交辞令で谷木の見舞に訪れた。

「早く元気になってくれればと...」

Y氏が声を掛ける。声の出ない谷木はアー、ウーと唸るばかり。

すると突然、脇にいた飼い犬がY氏に激しく吠え立てた。谷木は狼狽するY氏を眺め

ながら、何やら満足気でもある。

Y氏には、飼い犬の吠え声が何故かこう聞こえた。

「おい、心にも無い事を言うな」

2016年8月5日金曜日

第87話「革靴」

ある出勤前の朝、Y氏が玄関先で革靴を履くと、足先に違和感を覚えた。昨日の雨

で、履き古した靴の底から雨水が染み込んでいたのだ。乾かしている時間は無い。

ーそうだー

Y氏が思い出して押し入れを開けると、埃を被った靴箱があった。もう何年も昔に、

Y氏の就職祝いに母が買ってくれた革靴である。随分と履き古したが、今日だけの代

用なら事足りる。

蓋を開けて靴を取り出してみると、指先に革の弛んだ感触が伝わり、表面には見覚え

のない何本ものシワが刻まれていた。履き慣らした当時とは随分と様変わりをしてい

る。

Y氏は、まるで二重写しの様に、暫く見ていない年老いた母の顔を思い浮かべた。

―母に会おうー

Y氏は、そう思った。

2016年7月29日金曜日

第86話「360度」

”この教材で、あなたの人生が360度変わります”

そんな広告を目にしたY氏は、さっそく妻に相談した。

「俺は成功して人生を変えたい」

「あなたが、そこまで言うのなら」

妻が給料の3か月分を工面し、Y氏は教材を購入した。

ーこれで俺の人生が360度変わるー

Y氏は熱心に教材に取り組んだ。しかし、人生は何も変わらなかった。

そんなある日、宿題で頭を抱える息子にY氏が声を掛けた。

「何か分からないのか」

「パパ、この問題が解けなくて」

「どれどれ...、時計の秒針は5秒で30度進みます。では1分後に秒針はどこに移動

しますか?なんだ、簡単じゃないか。1分たてば360度回って同じ場所だよ」

「何も変わらないって事だね、パパ」

2016年7月22日金曜日

第85話「ある殉職」

その朝、ヒロシの携帯が鳴った。

「母さんだよ、元気かい」

「元気だよ。もう仕事に行かなきゃ」

珍しい母からの電話。短い会話の後、ヒロシはマンション建設の現場に向かった。

新人警備員のヒロシは、クレーンの積み荷の下で安全管理を行っている。その日は風

が強い。ヒロシが見上げると、吊り荷がひどく風を受けていた。

ー危ない、落ちてくるー

そう思った瞬間、バランスを崩した吊り荷の鉄骨がヒロシの頭上へと降り注いだ。ヒ

ロシの体は幾つにも切り刻まれ...。

「おい、大丈夫か」

作業員が駆け寄り、刻まれたヒロシの体が拾い集められ、そして復元された。変わり

果てたヒロシに発せられた、叫びにも似た声。

「直ぐに救急車が来る、諦めちゃ駄目だ!」

2016年7月15日金曜日

第84話「ポメラニアン」

ー騒がしいポメラニアンだー

新居に移転したばかりのY氏は、向かいの飼い犬に悩まされていた。飼い主が留守の

時には寂しがって何時間も吠え続け、来客がある度に激しく吠え立てる。小型犬特有

の、その甲高い吠え声を聞くと不快極まりない。

耐え兼ねたY氏が苦情を入れると、飼い主は対策を考えておくと答えたが一向に改善

は見られなかった。

その上、Y氏が苦情を入れる度に向かいとの関係が悪くなって行くばかり...。

ーもう、耐えられないー

僅か三か月余りで、Y氏は再び移転する羽目になった。

そして新居に移った当日、Y氏は向かいの家へ挨拶に伺い玄関のチャイムを鳴らし

た。

住人がドアを開けると、Y氏に向かってポメラニアンが激しく吠え立て...。

2016年7月8日金曜日

第83話「酔客」

師走の夜、Y氏は空いた列車の座席に腰掛けると、赤色のマフラーを外して無造作に

座席の脇に置いた。

そこへ一人の酔客が乗り込み、Y氏の正面に座った。酔客が放つアルコール臭がY氏

の鼻を突く。

―少し離れて座ったらどうだー

Y氏が嫌悪感を示して酔客を睨み付けると、互いの目があった。

「何か文句あるのか」

酔客は、そう言いたげでもある。車内に険悪な雰囲気が漂う。

やがてY氏は列車を降り、改札へと向かった。やけに首元が寒い。すると、後ろから

足音が近付いてきた。振り向くと先程の酔客である。

―逆恨みかー

Y氏が身の危険を感じて走り出すと、酔客はその後を追いかけて大声で叫んだ。

「おい、忘れ物だ」

酔客は、赤色のマフラーを手にし...。

2016年7月1日金曜日

第82話「空飛ぶ少年」

「わーい、雪だ」

小学一年生の翔太は空を見上げた。勢いよく舞い落ちて来る牡丹雪を眺めていると、

まるで自分の体が空へと吸い込まれて行く様な錯覚さえ起こる。翔太は空飛ぶヒー

ローさながらに、空へ向けて両手を伸ばした。

ーまるで、空を飛んでいるみたいー

そんな幻想に浸っていると、突然、翔太の足が地面から浮き上がった。

「あっ」

翔太は声を上げた。幻想は現実となり、翔太の体は空高く昇り始めた。見下ろせば、

何もかもがミニチュアの様だ。

それから、どれくらい高く昇っただろうか・・・。やがて雲の切れ間から青空が見え

始めると雪の勢いは衰え、そして翔太の視界から雪が消えた。

「あっ」

翔太が再び声を上げた時、その体は重量を帯び・・・。

2016年6月24日金曜日

第81話「愛の貸借契約」

Y氏は最近、原因不明の孤独を感じる事がある。年齢に伴う更年期障害の一つかと

思ってもみたが定かではない。そこでY氏は、ドクターKに相談を持ち掛けた。

「先生、最近、私は原因不明の孤独に襲われるのです」

「あなたの年齢と家族構成は」

「四十歳で独身です」

「なるはど。実は金銭と同じ様に、愛にも貸借契約があるのです。つまり、あなたが

親から貰った愛情は、あなたの子供に返済する義務があるという事です。しかし、あ

なたは今、契約に違反をしています。それが孤独の原因です」

「では、すぐに結婚して子供を作ります」

「でしたら、私がその手筈を整えましょう」

妙に手回しが良い。ドクターKには、結婚相談所のオーナーという別の顔がある。

2016年6月17日金曜日

第80話「風鈴売りの老人」

夏の昼下がり、Y氏は散歩へと出掛けた。

ー俺は不運な男だー

Y氏が肩を落として歩いていると、道端で風鈴を売る露店商を見付けた。

「今時、珍しいですね」

Y氏が店主の老人に声を掛ける。

「はい、昔はお買い求めになる方も多かったのですが。今の人たちは、風情に耳を傾

ける心のゆとりを無くしたのでしょうね」

「私には、心のゆとりなど・・・。実は最近、リストラされたのです」

「良い機会かもしれませんよ。夢を実現させるには」

「夢、ですか・・・」

「よかったら、一つ差し上げます」

Y氏は風鈴を受け取った。風鈴に吊るされた短冊に力強く書き記された文字。

”僕は将来、ラーメン屋になりたい”

子供の頃、Y氏は同じ夢を記した記憶がある。

2016年6月10日金曜日

第79話「命の恩人」

ーこの家にしようー

空き巣の常習犯であるY氏は、今日の狙いを定めた。人気が無いのを確かめ、いとも

簡単に玄関の鍵をこじ開けると、中に侵入して一部屋ずつ物色を始める。

そしてリビングの扉を開けた時、Y氏は思わず声を上げた。

「あっ」

目の前で老人が倒れている。声を掛けたが反応が無い。Y氏が救急車を呼ぶと、直ぐ

に隊員が到着した。

そこへ偶然に、住人の老婆が帰宅をする。

「人が倒れていたので、僕が救急車を呼びました」

「あなたは命の恩人です」

老婆は泣いて喜んだ。

すると今度は、騒ぎに気付いた警察官がやって来た。警察官はY氏から事情を聞く

と、最後にこんな質問をした。

「所で、あなたは誰ですか?ここで何をしていたのですか?」

2016年6月3日金曜日

第78話「老後の人生」

Y氏は三十歳で結婚した。マイホームを購入し、やがて二人の子供を持った。

「定年まで、しっかり働いてよ」

嫁は口癖の様に言う。

「分かっている」

覚悟を決め、そう答えるY氏。

朝から晩まで身を粉にして働き、ようやく得られる必要最低限の糧。自分の人生を犠

牲にし、会社と家を往復するだけの毎日。

ー老後は、バラ色の人生が待っているー

Y氏は自分にそう言い聞かせ、仕事漬けの日々に耐え続けた。

そして遂に、Y氏は定年退職の日を迎えた。

ーこれからは、退職金と年金で楽しくいきるぞ!ー

Y氏は意気揚々と散歩に出掛けた。所が、不運にも途中で車に轢かれ・・・。

ー老後など無かったのだー

死に際で気付いた大きな誤算。人生は二度と戻らない。

2016年5月27日金曜日

第77話「踏切ゲーム」

一郎と二郎は双子の小学生。二人は帰り道の踏切で何時もゲームを楽しんでいる。そ

れは遮断機が下りてから幾つ数えて踏切を渡れるかという度胸試しの踏切ゲームだ。

その日、まず一郎が10を数えて踏切を渡った。

「次は僕の番だ」

二郎がそう言って列車を待つ・・・。

やがて警笛が鳴り、遮断機が下りた。

「1,2・・・」

二郎は11まで数え、急いで踏切を渡り始めた。そこへ特急列車が・・・。二郎は死ん

だ。

次の日、一郎は帰り道の途中で、遮断機の下りた踏切の向こうに二郎の姿を見た。

「早くおいでよ」

その声に誘われて一郎が踏切を渡る。そこへ特急列車が・・・。

一郎は二郎の声を聞いた。

「もう大丈夫。僕たちは、列車をすり抜けてしまうから」

2016年5月20日金曜日

第76話「学級崩壊」

新人教師のK子は、この春から小学校四年生のクラス担任になった。

―よし、頑張るぞ!―

K子は希望に胸を膨らませた。

しかし、希望は失望へと変わって行く。話を聞かない子供、成績が伸びない子供、規

則を守らない子供・・・。

―もう、やっていられない―

K子は、わずか半年で鬱を起こした。

更にクラスでは悪質なイジメが起こる。ある生徒の机に菊の花が飾られていたのだ。

まるで死人を弔うかの様に。生徒は悪戯を苦にして自殺をした。

その後、同じ悪戯が続いて、クラスの生徒が次々と自殺をして行く。

「誰の悪戯なの」

K子の問いかけに、生徒は誰も答えない。

ある放課後、教室に居残る者がいた。

「皆、死ねばいい」

K子は菊の花を机に飾った。

2016年5月12日木曜日

第75話「タイムトラベル」

M博士は助手の頭に装置を被せ、タイムトラベルの実験を開始した。

「それでは、過去を旅してもらいましょう」

M博士はそう言って、装置のチャンネルを千年前に合わせた。

「何が見えますか」

「驚きです。古代の風景が見えます。博士、この装置の原理を教えて下さい」

「あなたの古い記憶を呼び覚ましたのです。やはり人間には前世があるのでしょう」

「では博士、まだ記憶が無い未来の私を見る事は可能ですか」

「可能です。未来のあなたは、あなたが想像した通りの姿になります。つまり、思考

は現実化するのです」

「なるほど」

「では、想像して下さい。あなたは将来、どの様な自分をお望みですか」

M博士は装置のチャンネルを未来に合わせた。

2016年5月4日水曜日

第74話「成功報酬」

Y氏は、ごく普通のサラリーマンである。一日八時間の単調な仕事をこなし、毎月決

まった額の給料を支給される。昇給は雀の涙ほどだ。

ー全く、面白くない仕事だー

やる気の起きない毎日を過ごすY氏。

ー何か成功報酬が欲しい。そうだ・・・ー

ある日、試しに副業を始めてみると上手く行き、Y氏はすっかり味をしめた。成功報

酬は日によって異なるが、それなりの小遣いになる。

ーもう、やめられないー

何しろ副業の方は上手くやった分だけ成功報酬が得られるのだ。緊張やプレッシャー

も伴うが、ある種の快感にも似た達成感が得られ、本業の何倍も面白味がある。

ー今日は、いくら儲かるだろうかー

Y氏は人混みに紛れ、標的の懐にそっと手を伸ばした。

2016年4月26日火曜日

第73話「マネキン」

洋服店を営むY氏は、明日の開店準備に忙しい。時刻は夜半過ぎ。Y氏は一人で店に

残り、数体のマネキンに洋服を施していた。そして最後の一体に花柄のワンピースを

着せた。

「今年の流行りになる」

マネキンに語りかけるY氏。

「嬉しいわ」

そんな声が聞こえた気もする。空耳だろう。

やがてY氏は眠くなり、店のソファーで深い眠りに入った。

そして朝を迎えた。

「すまないが、マネキンを配置してくれないか」

Y氏はそう言って、店員に配置図を手渡した。暫くして、店員が言った。

「マネキンが一体足りないのですが」

「まさか」

Y氏は陳列窓に目を向けた。

ーあれ、見覚えがあるなー

窓越しに通り過ぎて行く女は、花柄のワンピースに身を包み・・・。

2016年4月18日月曜日

第72話「記憶喪失」

ある男が、ドクターKを訪ねてやって来た。

「先生、私は十日前に頭を打ってから、それ以前の事が思い出せないのです」

「記憶喪失ですね。どこかの病院で治療はされましたか」

「はい、何件も病院を回りましたが、まだ記憶が戻りません」

「分かりました。では、簡単なショック療法を行いましょう」

ドクターKはそう言って体に用具を身に付け、男に治療の説明をした。

「では、始めてよろしいですね」

「お願いします」

すると、ドスンと鈍い音がした。

「どうします、このまま治療を続けますか」

「はい、続けて下さい。少し効いた気がします」

「分かりました」

男は歯を食いしばり、ドクターKはグローブをはめた拳を握りしめた。

2016年4月10日日曜日

第71話「美人妻」

Y氏はお世辞にもイケメンとは言えないが、何度も見合いを重ね、ようやく結婚をし

た。しかも妻は、とびきりの美人である。正に美女と野獣の組み合わせと言える。

ー長年、待った甲斐があったー

Y氏は妻の顔を見る度に、そう思うのである。

「子供は女の子が欲しいな」

Y氏は妻に将来を語った。

「どうして」

「女の子だと、きっとお前に似て美人になる」

「そうだと、いいわね」

そして一年後、待望の女の子が生まれた。

「お前とは似ていないな」

Y氏はそう言って、妻と子供を見比べている。

「そのうち、私に似てくるかも・・・」

やがて成長した娘は美人でも無く妻とも似ていなかった。

Y氏は不思議に思い、昔の妻のアルバムを、こっそりと覗き見した。

2016年4月3日日曜日

第70話「豚小屋」

朝の満員電車は豚小屋の様に息苦しい。

電車を降りて目にするホームの人波は、まるで豚の大群に見える。Y氏は豚の大移動

さながらの行列に混じり、ようやく改札を抜けた。

昼になると、食事処はどこも満員だ。カウンター席に押し込まれ、体を縮めて食事を

するY氏の姿は、餌にありついた豚を思わせる。

やがて終業時刻になり、Y氏は立ち飲み屋で安酒にありついた。店は客でひしめき合

い、まるで豚の酔い処にでもいる気分だ。

最終電車でY氏が自宅に戻ると、無断の外飲みに腹を立てた嫁は玄関を開けてくれな

い。Y氏は仕方なく猫の額ほどの庭で横になった。

「俺は豚じゃない」

Y氏は呟いた。そこは満員の豚小屋を思えば、甚だ快適なのかもしれない。

2016年4月2日土曜日

第69話「一攫千金」

「馬場さん、儲かっているかい」

競馬新聞を見ている同僚に、Y氏が声を掛けた。

「さっぱりだよ」

馬場は冴えない表情で答えた。

「馬場さん、博打は当てに行くから当たらない。そうだろう」

「じゃあ、何か他に一攫千金の良い方法があるのかい」

「勿論さ。大きな声では言えないけど・・・」

数日後、馬場が交通事故で死んだ。幼い子供と妻を残して。

Y氏は複雑な気持ちで、数日前に交わした馬場との会話を思い出した。

「馬場さん、当て物は当てに行くから当たらない。だったら、自分から当たりに行け

ばいい」

Y氏は馬場に、確かにそう言った。何か後ろめたい気もする。しかし付け加えて、こ

うも言っておいたのだ。

「但し、上手く当たる事が大前提だ」

2016年4月1日金曜日

第68話「コンビニ戦争」

ーこのままでは、店が潰れてしまうー

コンビニ店を個人経営しているY氏は、ひどく頭を悩ませていた。最近、周りに数件

のコンビニが開店したお陰で、客が激減しているのだ。

ー何か、良い方法はないか・・・-

Y氏は思案を重ねた。客を呼び込むには、他店には無い斬新な試みが必要である。

ーよし、あの手を使おうー

Y氏は一案を思い付き、店員を一新し、制服も新しく仕立て直した。

そして一か月後、店は大いに売り上げを伸ばした。

「いらっしゃいませ」

女店員の声が響き、そこへ鼻の下を伸ばした男性客が次々とやって来る。

ー上手くいったー

Y氏は、ご満悦である。何しろ、ここは目で楽しめるコンビニなのだ。店員は皆、ミ

ニスカートの女性である。

2016年3月31日木曜日

第67話「運勢」

Y氏は強かに酔い、タクシー乗り場に向かっていた。すると途中で、露店の占い師を

見かけた。

「試しに占ってもらおうか」

「分かりました」

Y氏が手を差し出し、占い師は鑑定を始めた。

「あなたの手相には、近い将来に事業で大成功する運勢が見えます」

「本当かい」

「はい。但し、お酒には注意して下さい」

「分かっている」

Y氏は気を良くし、あと少し飲みたくなった。

やがてY氏はすっかり泥酔し、最後の店を出る。

「俺の人生は、前途有望だ」

Y氏は独り言を口にしながら、フラフラと道路へとはみ出した。そこへ運悪く車が

突っ込み・・・。

Y氏は致命傷を負った。そして死に際で呟いた。

「全く、酒の魔力というやつは、運勢に余計な手を加えやがる」

2016年3月30日水曜日

第66話「生ガキ」

Y氏は自宅に数名の知人を招き、生ガキを振る舞った。

「先日、故郷の漁師から生ガキを頂いたのですが、とても一人では食べ切れなくて」

食卓は生ガキで賑わっている。

「生モノですから、早めにどうぞ」

Y氏が勧めると食卓へ一斉に箸が伸び、生ガキは見る間に食べ尽くされて行く。

その後、雑談を交えて数時間が過ぎた。

「では、そろそろ」

Y氏が御開きを促すと、知人の一人が食卓を指差して言った。

「生ガキが一切れ残っています。誰か召し上がって下さい」

「どうぞ、どうぞ」

皆そう言って人に勧め、誰も生ガキに手を付けない。残り物には、時々当たりがある

というのに。

「では、私が」

Y氏は最後の生ガキを口にして、見事に食あたりを起こした。


2016年3月29日火曜日

第65話「空気読めない」

休憩室に居合わせた同僚の二人が、ある後輩の噂話を始めた。

「うちの会社で、空気が読めない人間は誰だと思う」

「KYと言ったら、もちろん新人のキムラだよ」

二人は小声で話を続けた。

「やっぱり、君もそう思うだろう」

「そう。言ってみれば、キムラはKYの代名詞みたいな人間さ」

「それは言えるな。それにしても、キムラのKYはひどすぎるよ」

「確かに。だって、キムラは生まれつきのKYだから手に負えない。正に筋金入りだ

よ」

「どうして、生まれつきだと分かる」

「どうしてって、キムラをイニシャルで読んでみな」

「キムラ、ユウ・・・。確かに、筋金入りのKYだ」

2016年3月28日月曜日

第64話「死にきれない男」

Y氏は事業に失敗し、莫大な借金を背負った。

ーこうなったら、いっその事・・・ー

Y氏は将来を悲観し、自らの手で何度も命を絶とうと試みた。しかし、なぜか死にき

れないのだ。

首を吊ればロープが切れ、川に身を投じれば水深が浅く、車に飛び込めば上手く交わ

される。早い話が、Y氏は運が良いのである。

ーどうやら俺は、死に神との相性が悪いらしいー

Y氏は運命に逆らわず、生きる決心をした。

数年後、Y氏の運転する車が大爆発を起こした。誰もがY氏の死を予感した時、Y氏

は炎の中から奇跡的に生還を果たした。

「見事な脱出劇でしたね」

レポーターがY氏にマイクを向ける。

「俺は死にきれない男さ」

スタントマンのY氏は、そう答えた。

2016年3月27日日曜日

第63話「死に際」

その夜、酒に酔ったY氏の心に魔が忍び込んだ。

ー自宅まで、少し運転するだけだー

Y氏はハンドルを握り、車を発進させた。

やがて自宅に近付くと、バックミラーにパトカーが映った。Y氏は職務質問を恐れ

た。

ーこのまま逃げ切ってしまえー

Y氏はアクセルを踏み込んだ。すると突然、前方に人の姿が見えた。

ー危ないー

Y氏はブレーキを踏んだが間に合わなかった。直ぐにパトカーが追いつき、Y氏は警

察官に捕らえられた。

「前方不注意だな。それに酒臭いぞ」

「相手は、なぜか急に飛び出して来たのです」

「言い訳は無用だ」

Y氏の弁明は通じなかった。

翌日、警察官がY氏に告げた。

「被害者が亡くなった。所持品の中に、遺書が見つかったらしい」

2016年3月26日土曜日

第62話「ライバル」

一郎と二郎は双子の兄弟であり、互いに良きライバルでもあった。

先に生まれた兄の一郎と、後から生まれた弟の二郎が、ある意味で生まれる時から競

争を始めていたとすれば、まずは先に生まれた一郎の勝ちと言える。

以来、二人は何においても先を争った。ただ、二郎は一郎に勝てなかった。あと少し

の所で、何時も一郎に先を越されてしまうのだ。

ー何時か一郎に勝ちたいー

二郎は常にそんな気持ちで生きていた。

しかし、その願望は果たされないまま、やがて二人は高校生になった。

そんなある日、不幸にも一郎が交通事故で死んでしまう。二郎は悲しみつつも、悔し

い思いをした。

ー兄さん、俺よりも先に死なれたら、また兄さんの勝ちじゃないかー

2016年3月25日金曜日

第61話「特効薬」

ドクターKが両親に告げた。

「息子さんは、もう手遅れです。ただ、人体実験を通じて試験薬を使用すれば、助

かる可能性もあります」

「息子に人体実験を施して下さい」

両親は懇願した。

「分かりました」

ドクターKは息子の体に試験薬を投与した。

「先生、それは何の薬ですか」

「若返りの薬です。上手く行けば、息子さんは健康だった頃の体に若返ります」

薬の効果は直ぐに現れた。息子の年齢は後戻りを始め、しかも若返りは進行し続ける

のだ。すると息子の体は次第に小さくなり、遂に消えてしまった。

「実験は失敗です」

以後、母はショックで長期入院した。その間、母の体には身に覚えの無い変化が起き

た。

ー私、妊娠したみたい。もしかして・・・ー

2016年3月24日木曜日

第60話「タイミング」

Y氏は停車中の電車に乗り込んだ。扉の脇に立って外を見ると、フラフラとオヤジが

歩いて来る。だが乗車せずにY氏の正面で立ち止まった。ホームで次の電車を待つの

だろう。

ーこのオヤジ、酒臭いなー

Y氏が何気にオヤジを見ると不意に目が合った。する突然、オヤジはY氏に因縁を付

けてきた。

「おい、何を見ている。文句あるのか」

どうやらオヤジは酒癖が悪いらしい。Y氏は頭にきたが押し黙った。ここで怒りを口

にすればトラブルになる。Y氏はタイミングを計る事にした。

やがて警笛が鳴り、扉が閉まる瞬間、Y氏は大声でオヤジに捨てゼリフを浴びせた。

「この馬鹿野郎!」

すると、そこへ一人の乗客が駆け込んで来た。扉が再び開き・・・。

2016年3月23日水曜日

第59話「神隠し」

ある田舎町の通学路を、小学三年生の男児が二人で下校していた。二人が道路脇にあ

る土砂の集積場に差し掛かった時、一人が言った。

「ここに僕たちの秘密基地を作らないか」

「おもしろそう」

さっそく二人は、今にも崩れそうな土砂の斜面に慎重に穴を掘り始めた。

やがてポッカリと口を開けた小さな洞穴は、二人が身を隠すには最適の場所となっ

た。

「ここを僕たち二人だけの秘密基地にしよう」

「うん。暫く隠れていようよ」

こうして二人は洞穴の中に身を潜めた。

やがて日没になっても、二人は家に戻らなかった。そこで捜索隊が出動した。

「何処にもいないぞ。神隠しの仕業かな」

秘密基地は崩れ落ちて跡形も無い。そして二人の姿も消えた。

2016年3月22日火曜日

第58話「双子」

双子の兄弟は五十歳になった。

「兄さん、俺たち、もういい歳だな」

「早いものだ。所で、お前は結婚しないのか」

「この歳だし、半分諦めているよ。兄さんの方はどうなの」

「実は、来年の春に結婚が決まっている」

「えっ・・・」

弟は兄に先を越された様な気がした。

そして結婚式の当日、双子の兄弟はこんな話をした。

「兄さん、ちょっと悔しいけど、おめでとう」

「有難う。お前も直ぐに結婚できるよ」

「そうかな」

「そうさ。双子の俺たちは好みも似ているだろう」

「確かに、似ている」

それから半年後、兄の言った通り弟もめでたく結婚した。

「兄さん、偶然にしては出来過ぎた結婚だとは思わないか」

兄の嫁と弟の嫁は、双子の姉妹である。

2016年3月21日月曜日

第57話「視線」

その日、ガードマンのY氏は重要な任務を与えられていた。

「では、配置に就いてくれ」

「了解しました」

隊長の指示を受け、Y氏は某ホテルの出口に立った。間もなく大物スターを乗せたセ

ンチュリーが、Y氏の脇を通過してホテルを後にする。出口付近には、既に大勢の人

が詰めかけていた。

彼らの進路妨害を防ぎ、スターを無事に送り出す事がY氏の任務である。Y氏は、さ

りげなく腕時計を見た。

ーもう、そろそろだー

そこへセンチュリーが現れ、Y氏の脇で一旦停止をした。歓声と共に、見物人の熱い

視線が出口に注がれる。Y氏は任務の傍らで、その視線に訳も無く酔いしれた。

―俺、ちょっとイケてるかもー

Y氏は何気に服装を整えた。





2016年3月20日日曜日

第56話「アナウンス」

休日の昼下がり、Y氏はようやく目を覚ました。

ーもう、こんな時間かー

Y氏は布団から起き上がると部屋のカーテンをめくり、窓を開け放った。するとアナ

ウンスの声が聞こえてきた。

「只今、廃品を回収しております。不用品の処分に困っている方は、何時でも声を掛

けて下さい。あなたの事、待っています」

それは、とろける様な年若い女性の声であった。Y氏は声の主を想像しながら、思わ

ず鼻の下を長くした。

ーちょっと、見てくるかー

Y氏は、わざわざ廃品を探し出して表へ出た。そしてアナウンスの車に近付き、嬉し

気に中を覗き込んだ。

「お待ちしていました」

車内のオヤジがニヤリと笑う。

テープから流れ出る美声に誘われて、また別の男がやって来た。

2016年3月19日土曜日

第55話「五感」

Y氏は先輩に連れられて、とある居酒屋の暖簾をくぐった。

「乾杯」

二人はグラスを合わせ、一杯目の酒を勢いよく飲み干してゆく。そして二杯目、三杯

目と進んで酔いが深まってくると、二人は熱く人生論を語り始めた。

「先輩、人間の一番の幸せとは何だと思いますか」

Y氏は先輩に初めてそんな事を聞いた。

「いい質問だ。俺も君と同じくらいの歳の頃には、その事をよく考えたものだ」

「それで、どんな答えが出たのですか」

「簡単さ。人間は見たい物を見て、聞きたい物を聞き、美味しい物を味わい、いい香

りを嗅ぎ、触りたい物を触ればいい。つまり、幸せとは五感を満たす事だよ」

「なるほど。でも僕は、触りたい物を触って痛い目にあいました」

2016年3月18日金曜日

第54話「王様の死」

ある国に王様が住んでいた。

「我は偉大なり。我は最も神に近き者なり」

王様はそう公言し、絶対的な権力で全ての民衆から豊を吸い上げていた。その為に、

民衆たちの暮らしは非常に貧しかった。

ある日、王様は家来たちを従えて町を練り歩いた。するとそこに、一人の薄汚れた男

が現れた。

「何の用だ」

王様は、男を見下すように言った。

「王様に話があります」

「俺と話をするなど千年早いわ。虫けらよ邪魔だ、どけ」

「ほう、虫けらは無害とは限りませんよ」

「無礼者!こいつを捕まえろ」

そう叫ぶ王様に、男は隠し持っていた毒を放った。そして、うろたえる王様に男は

言った。

「俺は物乞いだ。一国の王様が物乞いに命を取られるとは、いい笑い話だ」

2016年3月17日木曜日

第53話「切符」

往復切符を片手に、Y氏は特急列車に揺られながら遠方の行楽地を目指していた。

「隣は空いていますか」

一人の老人がY氏に声を掛けた。

「どうぞ、空いていますよ」

「じゃあ、失礼します。それにしても、最高の行楽日和ですね」

「まったく。今日はどちらまで」

気さくな老人は、すぐにY氏と打ち解けた。

暫くすると、車内放送が流れた。

「お客様に申し上げます。只今、この列車はハイジャックされ・・・」

騒然とする車内。すると突然、大きな爆発音が聞こえた。

「俺はまだ死にたくない」

取り乱すY氏に、老人は静かに声を掛けた。

「この辺で、旅は終わりですね」

「そんな馬鹿な。俺は往復切符を持っているのに」

「人生は、片道切符の旅なのです」

2016年3月16日水曜日

第52話「健康管理」

Y氏の健康管理は徹底していた。食事については栄養士を雇い、運動においては専属

トレーナーの指導を受けている。更に担当医による健康チェックを常に欠かさず、健

康食品や健康グッズなど、体に良いとされる物は何でも取り入れている。

ある日、Y氏は半年に一度の定期健診を受けた。

「検査の結果、あなたは完璧な健康体と言えます」

「それは良かった。何しろ、日頃から完璧な健康管理を行っていますから」

「このまま行くと、きっと世界一の長寿になれなすよ」

その後、Y氏が病院を出ると、運悪くコンクリートの破片が頭上に落ちてきた。それ

は彼に十分な致命傷を与えた。

完璧と思われたY氏の健康管理に、不可抗力という項目は見当たらない。

2016年3月15日火曜日

第51話「ひょうたん」

ある村に、とても貧乏な男が住んでいた。ある日、男は家にあった全ての食料を食べ

尽くしてしまった。

「神様、もう食べ物がありません。助けて下さい」

男は天に向かってお願いした。すると、こんな声が聞こえてきた。

「丘の頂上で木を見上げなさい」

男が声に従うと、木の枝にひょうたんがぶら下がっていた。手に取るとずっしりと重

く、傾けると中から豆が出てきた。

暫くの間、男はその豆を食べて飢えをしのぐ事にした。ところが、いくら豆を食べて

も、ひょうたんは空にならないのだ。

男は不思議に思い、ひょうたんの中が見てみたくなった。そこで、ひょうたんをノコ

ギリで二つに切り分けてみると、中にいた小人たちが、せっせと豆を作っていた。

2016年3月14日月曜日

第50話「正義感」

Y氏は念願のマイホームを購入した。ある日、親友を招いて新居のお披露目となっ

た。

「いい家じゃないか」

「一目で気に入ったよ」

「申し分ないだろう」

「それが、隣の飼い犬の鳴き声が少し気になっている」

「苦情は言ったのか」

「何も言っていない。触らぬ神に祟り無しって言うだろう」

「お前は、昔からそういう所がある。よし、俺が話を付けてくるよ」

気弱で大人しいY氏の代わりに、正義感の強い親友は直ぐに行動を起こした。

「どうだった」

「上手くいったから、もう大丈夫だ。また何かあれば、何時でも俺に相談してくれ」

「助かるよ」

以来、Y氏に対する隣人の態度が変わった。Y氏は今、新居を売却しようかと考えて

いる。

2016年3月13日日曜日

第49話「サバイバル時代」

世界の平和と安全は、決して確約されている訳ではない。天変地異、疫病、食料不

足や災害、テロ、戦争などの災難は、今も世界中の何処かで起きているのだ。それ

が、いつ降りかかって来たとしても不思議ではない。

ー明日は、我が身かもしれないー

世界が混沌とする直中において、Y氏は最近、切にそんな不安を抱いていた。

やがてY氏の不安は現実となり、戦争が始まった。

そして国土の大半が焼け野原と化し、多くの戦争難民が生まれた。正にサバイバル時

代の始まりである。

しかし、長らく平和な暮らしを続けてきた多くの人々には、こうした危機的な状況を

生き抜く知恵が無い。

ー生き残るのは、彼らしかいないー

Y氏はホームレスを眺め、そう確信した。

2016年3月12日土曜日

第48話「存在理由」

ー僕は、どうせ馬鹿な人間だー

Y氏は自分自身を否定しながら数十年を生きてきた。子供の頃は同級生から馬鹿にさ

れ、大人になると同僚から馬鹿にされている。こうして何年も馬鹿の扱いを受けてい

ると、それは自己イメージとなって定着してしまう。

「僕みたいな馬鹿な人間は、生きる価値がありません」

ある日、Y氏は信頼できる先輩に、そんな思いを打ち明けた。

「そんな事は無い。人間は誰でも、何かの存在理由があって生きている」

「そう言われると、生きる希望が湧いてきます」

「それは良かった。君は君自身の存在理由に気付くべきだよ」

「でも、何も思い浮かびません」

「例えば、馬鹿がいるから賢い人間が胸を張れる。そうだろう」

2016年3月11日金曜日

第47話「時間の感覚」

世はスピード時代である。技術の進歩は単位時間当たりの人間の活動効率を高め、感

覚的な時間は速まって行く一方である。早い話が、現代人は何かと忙しいのだ。

Y氏は最近、そんなスピード時代における、ある種の違和感を覚えている。

ーなかなか進まないなー

道を歩けば、つい歩調が遅くなる。

ー何をもたもたしているー

レジに並べば待たされる。

ー悠長すぎるだろうー

話せばテンポが上がらない。

こんな風にY氏の時間の感覚は、よく逆戻りを強いられる。つまり、スピードが求め

られる現代社会において、時間の感覚に明らかな逆行現象が起きているのだ。

ーこの現象は加速しているー

Y氏はそう感じていた。老人は、日々増え続けている。

2016年3月10日木曜日

第46話「バスを待つ女」

Y氏は同僚を連れて、行きつけの喫茶店で一息入れていた。窓の外を眺めると、美し

い女の姿が見える。バスを待っているらしく、女は停留所に立ち、何やら携帯電話で

話し込んでいた。

「いい女ですね」

先ほどから女に釘付けとなっていた同僚が、ふと漏らした。

「確かに」

Y氏も女に見とれていた。

「あの女、結婚していると思いますか」

「いや、していない」

Y氏はそう言い切った。

「分かるのですか」

「俺もこの歳だし、人を見る目くらいはある」

「じゃあ、あの女に彼氏はいますかね」

「いるよ。でも、あまり上手くは行っていないだろう」

「どうして、そんな事が分かるのですか」

「唇の動きを読んでいれば、色々と分かってくるさ」

2016年3月9日水曜日

第45話「精神療法」

ドクターKは精神医療の名医である。独特な彼の治療は極めて効果的で、かつ即効性

に優れている。そして薬などは一切使用しない。

ドクターKは自身を持って話す。

「私が患者の心に働きかければ、忽ちのうちに病は癒やされるでしょう。そして何度

も通院する必要はないのです」

ある時、ドクターKの元に一人の男がやって来た。

「先生、私は極度の高所恐怖症に悩んでいます。何とかなりませんか」

「分かりました。まずはリラックスして下さい」

「こうですか」

男は体の力を抜き、ドクターKに身を任せた。

「そうです。では、始めましょう。あなたは、高い所が少しも怖くない・・・」

ドクターKが男に施した催眠術は、二度と解かれる事はなかった。

2016年3月8日火曜日

第44話「傘」

雨の中、女がY氏の元を訪れた。

「何かあったの?急に呼び出したりして」

女はY氏の顔を見るなり、開口一番にそう告げた。

「どうしても君に話したい事がある。まあ、入ってよ」

女は濡れた傘を玄関の脇に立て掛け、靴を脱いだ。

「話って、なあに」

「それが・・・」

つまりは、別れ話である。

「私は人生の半分を、ずっとあなたに捧げてきたのよ」

「分かってくれ。もう、この辺で終わりにしよう」

「何よ、若い女に目移りするなんて。最低だわ」

その言葉を最後に、泣きじゃくる女は表へ飛び出して行った。独り残されたY氏は玄

関に立ち尽くし、ただ一点を見据えている。

女が置き忘れた傘。それはY氏の傘の横に、そっと寄り添う様にして立て掛かってい

る。

2016年3月7日月曜日

第43話「郵便配達」

Y氏は郵便配達の大ベテランだ。バイクを巧みに乗りこなして三十年、郵便物を運ん

で町中を走っている。一日で数百件に上る配達などは、Y氏にしてみれば朝飯前の事

だ。

この春にはY氏の転勤が決まり、新しい赴任先での初日がスタートした。

「首を長くして待っていました」

Y氏は大いに歓迎された。

「お世話になります」

挨拶が終わると、Y氏に新しい配達先が告げられる。

「じゃあ、頼みますよ」

「行ってきます」

Y氏は出発した。

やがて日が暮れる頃、Y氏はただ一件の配達を終えて戻って来た。

「それにしても、大変な配達を任されたものだ」

Y氏は疲れ果て、ふと漏らした。

人里離れた山の頂上に建つ一軒家。そこがY氏の新しい配達先である。

2016年3月6日日曜日

第42話「決心」

Y氏は年若く、夢を持っていた。しかし行動力に乏しいが為に、その夢は何時になっ

ても実現しない。とにかくY氏は、のんびり屋で尻が重いのだ。そんなY氏が、ある

日ようやく一念発起して行動を起こそうとした。

ーよし、明日から始めようー

最初はそう思ったが、明日になると気が変わった。

ーいや、一週間後に始めようー

そして一週間後には、また気が変わった。

ーいや、一か月後に始めようー

こんな具合に先延ばしとなり、挙句の果てにはこう思った。

ーいつか、そのうち始めようー

こうして人生をやり過ごしている間に、やがてY氏は年老いた。もう人生の時間切れ

が迫っている。

そこでY氏は新たな決心をする。

ー今度、生まれ変わったら始めようー

2016年3月5日土曜日

第41話「無言ゲーム」

人は喋らずに何時間いられるのか。そんな実験を兼ねて、無言ゲームと呼ばれる催し

が行われていた。参加者は部屋に入れられて審査員の監視の下で過ごし、一日に八時

間の睡眠が与えられる。

初参加のY氏は予め説明を受けた。

「喋らないで何時間いられるかに挑戦してもらいます。これまでの最長時間は八十八

時間です。この時間を超えれば、あなたに百万円を差し上げます」

審査員はそう言ってストップウォッチを取り出した。

「スタート」

それから八十五時間が過ぎ、Y氏は百万円の獲得を確信しながら睡眠に入った。

そして一時間が過ぎた頃、審査員はY氏を起こして突然こう告げた。

「残念ながらゲームは終了です。今あなたは寝言を言いましたね」

2016年3月4日金曜日

第40話「第3位」

Y氏は四十歳の時、運動不足を解消する目的で筋トレを始めた。体が筋肉質に変わっ

てくると新たな意欲が湧き、筋トレは更に本格的となる。その甲斐あって、三年もす

るとY氏の肉体は見違える変化を遂げた。

「一度、ボディビルの大会に出てみてはどうですか」

同僚に勧められ、Y氏は大会に出場する事になった。

毎回、予選は通過するものの、Y氏の通算成績における最高順位は四十代クラスでの

8位である。

―今度こそはー

上位を目指していたY氏は、今年初めて参加した五十代のクラスで3位となった。

「銅メダル、おめでとうございます!」

結果を聞いた同僚がY氏を祝福する。しかし、素直には喜べないのだ。

何を隠そう、参加者は3名であった。

2016年3月3日木曜日

第39話「ホームレス」

博打好きが高じて度重なる借金に手を染めたY氏は、遂に家賃が払えなくなった。

ーこうなったら、消えてしまえー

Y氏は失踪し、遠く離れた町でホームレスになった。

これから始まる路上生活は何かと不安でもある。Y氏は一人の先輩ホームレスに声を

掛けた。

「今日からホームレスを始めました」

「ああ、そうかい。じゃあ、ホームレスの生き方を教えてやるよ」

先輩は親切な態度を示した。話している間に仲良くなり、Y氏は身の上話を始めた。

「私は借金を抱えて逃げてきました。先輩も何か辛い事情があったのでしょう」

「俺は一時的に社会から存在をけしているだけさ」

「どういう事ですか」

「俺には不法に得た隠し財産がある。時効まで、あと少しだ」

2016年3月2日水曜日

第38話「サイクリング」

ある晴れた日曜日、Y氏は十年ばかり乗り慣れた愛車でサイクリングに出発した。

走り出して暫くすると、Y氏は前ブレーキに違和感を覚える。愛車を止め、点検の為

に前ブレーキをギュッと握ると、プツンとワイヤーが切れてしまった。

ー十年も乗っていれば、こんな事もあるー

修理を頼もうと思ったが、生憎ジュース代しか持ち合わせていない。

ー後ろブレーキが利いているから大丈夫だろう。よし、出発だー

愛車は再び走り出し、やがて高台の下り坂に差し掛かる。加速と共に、Y氏は清々し

い風を受けた。

ー気持ちいい、最高だー

その時、前方を横切る通行人がいた。

ー危ないー

Y氏が慌てて後ろブレーキを握ると、ワイヤーがプツンと音を立てた。

2016年3月1日火曜日

第37話「手品師」

Y氏は最近、手品を覚え、その腕前を知人に披露した。

「誰か一万円札を持っていませんか」

Y氏の問いかけに、知人の一人が財布から一万円札を取り出すと、それをY氏に差し

出した。

「それでは、この一万円札を消して見せましょう」

Y氏はそう言って、手にした一万円札にハンカチを被せた。

「1、2、3」

掛け声と同時にY氏がハンカチをめくると、見事に一万円札が消えていた。知人から

拍手が上がる。

「今度は、一万円札を元に戻します」

Y氏はハンカチで手を覆った。

「1、2、3」

Y氏がハンカチをめくると、消えた筈の一万円札が現れた。再び拍手が上がる。

ーこれは、いい商売になるー

Y氏は手にした偽の一万円札を、知人にお返しした。

2016年2月29日月曜日

第36話「生きるために」

最近、Y氏の周辺で立て続けに人が死んでいる。職場の同僚が交通事故で亡くなり、

親しかった同級生が心筋梗塞で亡くなり、更に近所に住んでいた知人が癌で亡くなっ

た。彼らは皆、働き盛りの四十代であった。

ー死は突然やって来るものだー

同じ四十代のY氏には、彼らの死が他人事とは思えなかった。平均寿命からすれば、

まだ三十年は生き延びる計算になるが、それが当てにならない事は彼らの死が証明し

ている。

ー俺はまだ死にたくないー

Y氏の中で死への恐怖が倍増する。以来、Y氏はその日に必ず何かをやり残しておい

て、それを次の日に持ち越すという行いを習慣にした。

ー明日に生きる理由を作っておけば、人は死なないだろうー

Y氏はそう考えた。

2016年2月28日日曜日

第35話「幽霊列車」

列車が大好きなサトシは、小学一年生の男の子。

その日、仕事から戻って来た父がサトシに言った。

「サトシ、列車でも見に行こうか」

「行こう、行こう」

大喜びのサトシは、父に連れられて自宅から程近い踏切へと向かった。そこは、サト

シが夢中になって楽しめる場所である。

「パパ、ほら見て。列車がやって来たよ」

そう言ってはしゃいでみせるサトシに、父は黙ってうなずいている。

「パパ、人がたくさん乗っているよ」

「仕事帰りの人たちだよ」

こうしてタカシは時が経つのも忘れ、次々とやって来る列車を眺めていた。そこへま

た列車がやって来た。

「パパ、今度は誰も乗っていないよ。幽霊列車かな」

暗がりの中、通り過ぎた列車は車庫へと向かった。

2016年2月27日土曜日

第34話「夜道」

その夜、女は男の家を訪れていた。夢中で話し込んでいる内に、やがて夜が更けてし

まう。

「私、もう帰らなきゃ」

「終電の時間は過ぎているよ」

「私の家は一駅向こうだから、歩いて帰るわ」

「夜の独り歩きは危険だし、君の家まで送るよ」

二人は夜道を歩き、やがて女の家に着いた。

「ありがとう、助かったわ。あなたは、どうやって帰るの」

「タクシーも見当たらないし、歩いて帰るよ」

「夜の独り歩きは危険だわ。あなたの家まで送ってあげる」

二人は夜道を歩き、やがて男の家に着いた。

こうして二人は互いの家を何度も往復するのだった。

「私たち、一体いつまで歩き続けるのかしら」

「あと少しだよ、ほら」

男はそう言って、東の空を指差した。

2016年2月26日金曜日

第33話「子宝」

昔々ある所に、人里を離れてひっそりと暮らす若夫婦がいました。二人には子供がい

ませんでした。どうか子宝に恵まれます様にと何時も神様にお願いしていますが、そ

の願いはなかなか叶いません。

「あなた、早く子供が欲しいわね」

「そうだな」

「子供を授かる、何か良い方法はないのかしら」

「それは聞いた事がないよ」

「じゃあ、神様にお願いするしかないわね」

「神様にお願いすれば、コウノトリが赤子を運んで来てくれるらしいよ」

若夫婦は庭先で、そんな話をしていました。すると目の前で、二匹の猫が交尾を始め

ました。

「あれは一体、何をしているの」

「じゃれ合っているのかな。試しに真似てみようか」

「そうね、何だか面白そう」

2016年2月24日水曜日

第32話「水の中」

夏の海水浴シーズン。家族三人で海にやって来た四歳のケンタは、両親の目を盗んで

浜辺の波打ち際で戯れていた。

ーもっと、こっちにおいでよー

波に誘われるかの様に、ケンタは水に足を入れた。

ーもっと、こっちだよー

誘われるままに、ケンタは水の深みへと進んで行く。やがて足が立たなくなり、ケン

タは水の中でもがき苦しんだ。

「助けて」

その叫び声は両親には届かず、ケンタは意識を失いながらブクブクと水の中に沈ん

だ。

それから一体どれくらい時間が過ぎただろう・・・。ケンタの意識はやはり水の中に

あった。そこは苦しみの無い世界。むしろ居心地の良い世界だ。安心感に包まれた水

の中で、ケンタは成長を続けていた。臨月は、暫く先である。

2016年2月23日火曜日

第31話「守り神の祟り」

その昔、ある溜め池に大ウナギが住んでいるという噂があった。その姿を見た者は誰

もいなかったが、村人たちは大ウナギを村の守り神として崇めていた。

ある年の夏、村を襲った台風の影響で溜め池が決壊し、見る間に水が流れ出た。やが

て水かさが下がった水面に大ウナギが姿を現すと、そこに与平という村の若者が待ち

受けていた。

「捕まえたぞ!」

与平は雄叫びを上げた。そして大ウナギを家に持ち帰ると罰当たりにも蒲焼きにし、

酒の肴にして食べてしまった。

その夜、目を覚ました与平は小便がしたくて厠へと向かった。放尿しようとして股間

に手を伸ばすと、与平は思わず絶叫する。

「うひゃー」

与平の指先は、大ウナギの頭をつまんでいた。

2016年2月22日月曜日

第30話「騒音」

Y氏は夜な夜な、ひどい騒音に悩まされていた。自宅マンションから見下ろす大通り

を、頻繁に暴走族が通り過ぎて行くのだ。数十台もの改造バイクは地響きを伴う爆音

を発し、Y氏の聴覚に破壊的な衝撃を与えた。そのお陰で、これまでにY氏が安眠を

妨害された夜は数えきれない。

やがてY氏は耐え切れなくなり、引っ越しを決める。

そして数日後,Y氏は隣人に別れの挨拶を告げた。

「隣の者です。今日,引っ越す事になりました」

「それは突然ですね」

「はい、暴走族の騒音に耐え切れなくて。それにしても、ひどい騒音ですよね」

「確かに、ひどい騒音です。でも、私はこうしていますから」

隣人はそう言って、両耳から補聴器を取り外した。

2016年2月21日日曜日

第29話「職業経験」

初心な恵子と奥手な良夫は、プラトニックな恋愛関係の末に結婚した。

「私たち、これから先もずっとプラトニックな夫婦でいましょうね」

「いいとも。君がそれを望むなら」

二人は永遠のプラトニックを誓った。

ところが一か月もすると、二人の関係は激変していた。

「今日は一晩中、あなたを離さないわよ」

初心だった恵子は、すっかり開放的な女に変貌していた。

「ああ、望むところさ」

奥手だった良夫は、いつの間にかテクニシャンな男と化していた。

一体、二人に何があったのか。結婚後の変化と言えば二人は転職をし、それぞれが新

しい仕事を始めた事だ。

アワビ漁を始めた良夫と、マツタケ栽培を始めた恵子。二人は今、そんな職業経験を

している。

2016年2月20日土曜日

第28話「豪雨」

夏の天候は、しばしば急変する事がある。

ー何だか、ひと雨降りそうだなー

散歩中のY氏が見上げると、空がどんよりと曇り始めていた。

ー早く家に戻ろうー

Y氏は足を速めたが、暫くするとポツポツと雨が降り始めた。自宅はまだ先にある。

傘を持っていなかったY氏は、途中にあった茶店に立ち寄って雨をしのぐ事にした。

窓の外を見ると、雨はどんどんと勢いを増しながら大きな音を立て、やがて道路は見

る間に冠水し始めた。正にゲリラ豪雨である。

そして雨足は更に強まり、今度は何やら黒い物体が降り始めた。

「何だ、あれは!」

Y氏は驚き、思わず声を上げた。空から降ってくる無数のゴリラたち。正にゴリラ豪

雨である。

2016年2月19日金曜日

第27話「こぶとりじいさん」

「ママ、早くお話してよ」

四歳の息子は、母から聞かされる昔話を毎晩楽しみにしていた。

「今日は何の話をしようかしら」

毎晩となると、やがて話も尽きてしまう。

「ねえ、早く」

母は一案を思い付き、何時もの様に話し始めた。

「昔々ある所に、右のほっぺに大きなコブのある、おじいさんが住んでいまし

た・・・」

母が話を続けていると、途中で息子がこう言った。

「ママ、その話は前に聞いた事があるよ。こぶとりじいさんの話でしょう」

「そうよ。でも今日の話は、この前とは少し違うのよ」

「じゃあ、続きを話して」

「おじいさんは、体が少し太っていて・・・」

息子は、小太りじいさんの話を楽しそうに聞いていた。

2016年2月18日木曜日

第26話「窮鼠」

あるアパートの一室で、文学青年の二人が談笑している最中、飼い猫が何かの動きに

素早く反応した。

「おい、ネズミがいるじゃないか」

猫は部屋の片隅にネズミを追いやり、今にも捕まえようとしていた。

「うん。窮鼠、猫を噛むっていう諺があるけど、あれは本当かな」

「それは、どうだろう。俺は猫を噛んでいるネズミなんて見た事がないけど」

猫とネズミは睨み合い、その場を動こうとしない。

「なあ、ネズミの口元を見てみろよ」

ネズミは慌てる様子もなく、しきりにモグモグと口を動かしている。

「まるで、ガムでも噛んでいるみたいだ」

「全く。あれじゃあ、窮鼠、ガムを噛むだよ」

「新しい諺だな」

「あっ、はっはっはっ」

二人は大笑いした。

2016年2月17日水曜日

第25回「昔ばなし」

秋の夜長に母が幼子に聞かせていた昔話は、いよいよクライマックスを迎えていた。

「お爺さんは娘との約束を破り、こっそりと部屋の中を覗きました。すると一羽の鶴

がいました」

幼子は興味深く耳を傾け、母は話を続けた。

「鶴は口にくわえた包丁を研いでいました。そして、お爺さんに気付いてこう言いま

した。お爺さん、覚えていますか。私は山で罠にかかっていた鶴です。あの時、どう

して私を助けてくれなかったのですか」

幼子は顔を強張らせ、母は更に話を続けた。

「そして鶴は、お爺さんに包丁で襲い掛かりました。おしまい、おしまい」

「お母さん、なんだか怖い話だね。何て言うお話なの」

「鶴の倍返しよ」

2016年2月16日火曜日

第24話「年末の宝くじ」

宝くじ売り場の店先で、プラカードを手にした広報の男が通行人に声を掛けていた。

「本日、最終発売日となっております」

Y氏がその声を聞き流しながら店の前を通り過ぎようとした時、

「ねえ、少し買っていってよ」

男はそう言ってY氏の前に立ちはだかった。

「またの機会に」

「何だと、黙って店の前を通るのか。いいから買えよ」

男が高圧的な態度を示し、Y氏の癇に障った。

「あんた、強引すぎやしないか」

「ああ、ウチはこういう商売なのさ。分かるだろう」

男はそう言って、Y氏の目の前にプラカードを突きつけた。大きな文字でこう書かれ

ている。

"第1回年末ジャンボやからクジ・発売中"

確かに男はやかっている。

2016年2月15日月曜日

第23話「マッチを売る少女」

「マッチはいかがですか」

底冷えのする夜の繁華街の片隅で、少女は行き交うオヤジたちに声をかけていた。そ

こを偶然に通りかかったY氏が少女に話しかける。

「お嬢ちゃん、マッチを売っているの」

「そうなの」

そう答える少女は、どことなく大人びても見える。

「いまどき珍しいね、マッチ売りの少女みたいで」

「そうでしょう。それでオジサン、買ってくれるの」

「せっかくだから、一箱もらえるかい」

「ありがとう」

「お嬢ちゃん、いくらかな」

「一箱三百円よ。ところでオジサン、いくら持っているの」

少女はそう言うと、上目遣いでY氏を眺めた。

「いくらって・・・」

「実は私、エッチ売りの少女なの」

2016年2月14日日曜日

第22話「駆け込み乗車」

その朝は特に寒気が強く、通勤で行き交う人々の吐く息が白い。

ホームで電車を待つY氏の髪が、師走の風になびいた。

暫くすると電車が到着した。Y氏が乗車して扉の脇に立つと、車内に冷たい空気が流

れ込んだ。

「扉が閉まります」

そんなアナウンスと同時に勢いよく階段を上り、電車に駆け込んで来るスキンヘッド

のオヤジがいた。

「駆け込み乗車は危険です」

オヤジはアナウンスを聞き流し、辛うじてY氏の目の前に乗り込んだ。よほど走った

のか、肩で息をしているオヤジの額からは、この寒さの中で大粒の汗がにじみ出てい

る。

冷えた空気が漂う車内で、熱を帯びたオヤジの汗は白い蒸気となり、スキンヘッドの

頂上から見事に立ち上った。

2016年2月13日土曜日

第21話「胸のときめき」

ある日の昼下がり、二人の男が公園のベンチに腰掛けていた。

「先輩、胸がときめくって、いいですよね」

「胸のときめきか・・・」

「実は昨日、すごく胸がときめいちゃいました」

「ほう、何かあったのか」

「はい、見ず知らずの女性に道を聞かれました」

「それで、どんな女性だったの」

「若くて目の澄んだ、とても美しい女性でした」

「それで胸がときめいたのか」

「はい、聞かれた場所がすぐ近くだったので、案内がてらに僕は暫くその女性と一緒

に歩きました。もう胸がドキドキして」

先輩の男は、羨ましげに話を聞いていた。

「ところで先輩は、最近ときめいていますか」

「ああ、胸はよくドキドキするよ。いわゆる更年期障害というか・・・」

2016年2月12日金曜日

第20話「狙われた首相」

寒空の下、某国の首相は聴衆に向けて演説を行っていた。

今、世界情勢は緊迫しており、密かに首相の命が狙われているという噂もある。そん

な中、会場には厳重な警備体制が敷かれていた。

やがて首相の演説が滞りなく終了しようとした時、上空に一つの飛行物体が現れた。

それに気付いた護衛たちは空を見上げた。危険を察知すれば、直ぐに撃ち落とさねば

ならない。

飛行物体と首相との距離が徐々に縮まってゆく。しかし、護衛は動かない。タイミン

グを見計らっているのだろうか。

そして物体は、遂に首相の頭上に迫った。その瞬間、何やら白い落下物が放たれた。

ピチャ。

見事に首相の肩に命中した。

首相が見上げた先には、一羽の鳥の姿が・・・。

2016年2月11日木曜日

第19話「救いの手」

その朝、Y氏は何時もと同じ通勤電車に乗り込んだ。何か思い詰めた顔をしている。

ー俺みたいな人間は、いない方がいいー

Y氏はスーツの内ポケットに遺書を忍ばせていた。

ここの所、職場での人間関係が上手くいっていない。良かれと思って言った事が全て

裏目に出てしまう。やがてY氏は孤立し、仲間を失った。

「あんな奴、辞めてしまえばいいのに」

そんな噂まで聞こえてくる。

ー俺も嫌われたものだ。これ見よがしに社の屋上から飛び降りてやるー

Y氏はそう決意し、何気なく車内を見回した。すると、ある車内広告がY氏の目を引

いた。

"今週のベストセラー「嫌われ者の成功哲学」"

Y氏はスーツの内ポケットに手を伸ばし、遺書を握りつぶした。

2016年2月10日水曜日

第18話「骨折」

職場に、最年長の爺さんがいる。Y氏は親しみを込めて、彼の事を長老と呼んだ。

ある日の事、長老に悲劇が起こった。職場まで何時も自転車通勤をしていた長老は、

雨の日にスリップを起こして転倒し、右足を骨折したのだ。長老は、そのまま病院に

搬送された。

そして、三か月後。

「長老、退院おめでとうございます」

Y氏が長老に声を掛けた。

「ありがとう」

「それで、足の具合はどうですか」

「骨はくっ付いたが右足に力が入らなくて、どうも歩きづらいよ」

「それは不自由ですね。この際、左足の骨も折ってしまえばどうですか」

「何て事を言う」

「左右のバランスがとれて、丁度いいかもしれないですよ」

2016年2月9日火曜日

第17話「男と女」

「ねえ、一緒に住まない」

「ああ、そうしよう」

男と女の気持ちが高まり、二人は同棲を始めた。

しかし三年が過ぎた頃、二人の同棲生活は倦怠の中にあった。一つ屋根の下に住んで

いながら、その大半の時間を別々に過ごし、一緒に摂る食事の最中でさえ十分な会話

もない。

そんな生活に耐え兼ねた男が、ふと漏らした。

「なあ、もう別れないか」

「どうしたの、急に」

「俺たち、これ以上一緒にいる理由が無いと思うけど」

「どうして」

「君と僕は互いが空気みたいな存在で、いてもいなくても同じだろう」

「そうかもしれないけど、別れる理由も無いと思うの」

「何故だ」

「だって、空気は目には見えないけど、無くなると死んでしまうわ」

2016年2月8日月曜日

第16話「生まれ変わり」

Y氏の新しい転職先は、いわゆるブラック企業であった。実力、拝金主義の職場は常

に嫉妬、批判、欺瞞、陰口が渦巻く極めて険悪な人間環境にあった。

ー俺はもう、この職場では働いていけないー

やがてY氏は極度の人間不信から鬱を起こした。そんなある日、何時もの様に出勤し

てオフィスの扉を開けると、何故か同僚が一人もいなかった。

ーはて、どういう事だー

Y氏が呆気にとられていると、デスクの下から小動物が次々と姿を現した。しかも、

どこか見覚えのある顔付ばかりである。

Y氏はふと、小学生の頃に動物園で聞いた担任の先生の話を思い出した。

「人間はタヌキに生まれ変わる事があります。人の悪口を言ったり、人を騙したりす

ると・・・」

2016年2月7日日曜日

第15話「猫」

"桜散る"

そんな知らせが届き、青年の浪人生活が始まった。仲間たちの多くが進学や就職を祝

う中で、取り残された青年は底知れない孤独の中にいた。

そんなある日、青年は家の軒先で一匹の猫を拾った。ミイと名付け、家で飼う事にな

った。

ーミイ、君は僕の心の支えだー

以来、青年の心は癒され、勉学の励みにもなった。

そして、一年後の春。

"桜咲く"

青年の元に、そんな嬉しい知らせが届いた。

ところが、その日を境にしてミイは青年の前から姿を消した。どこを探しても見つか

らなかった。

ーミイ、ありがとう。君の事は、ずっと忘れないよー

青年の目に涙が浮かんだ。

ミイは今頃また何処かで、孤独な浪人生に拾われているのだろう。

2016年2月6日土曜日

第14話「妻の笑顔」

僕の喜びは、妻の笑顔を見る事だ。これまでの夫婦生活の中で、僕はとびきりの妻の

笑顔を3度見た事があった。

1度目は結婚の時。妻は、これから始まる甘い新婚生活に大きな期待をした。

2度目は子供が生まれた時。妻は、これから目にする子供の成長に胸を膨らませた。

3度目は孫が生まれた時。妻は、まるで我が子が誕生したように喜んだ。

今年で僕たちは結婚40年を迎える。体の弱った僕に比べ、妻はとても元気一杯だ。

そして最近、僕はこんな事を考えている。

ー4度目があるとすれば、それは何時だろうかー

すっかり会話をしなくなった妻の横顔を見る度に、僕にはその答えが分かる様な気が

する。

4度目は、僕が死んだ時なのだろう。

2016年2月5日金曜日

第13話「結婚とは」

結婚とは何か。そう自問自答する人もいるだろう。結局その答えは、実際に結婚して

初めて分かるのかもしれない。

Y氏は、ある時その答えに行き着いた。

「俺、結婚して気付いたよ」

食卓を囲み、Y氏がふと漏らした。

「急に何を言い出すのよ」

女房は面食らい、思わず箸を止めた。

「お前のお陰で俺は今、とても素晴らしい心境にいる」

「どんな心境なの」

「そうだな、例えて言えば偉い僧侶ってとこかな」

「立派な事だわ。でも、どうして私のお陰なの」

「どうしてって・・・。結婚とは、苦行の始まりだからさ」

2016年2月4日木曜日

第12話「やせ我慢」

"我慢は美徳である"

そんな信条の下に、Y氏は若い頃より自らに我慢を課し、忍耐を通じて生き抜いて来

た。今年でY氏も四十代半ばを迎えたが、生きる姿勢に変わりは無い。

そして最近になって、Y氏は新たな我慢を自らに課した。

「今日からビールは飲まないぞ。それと食事の量も半分にしてくれ」

「あら、あんなに大食漢だったのに。我慢しすぎると、かえって体に悪いわよ」

嫁はY氏を気遣った。

「いいさ。男が一度決めた事だ」

Y氏は目の前のビールに敢えて見向きもしない。だが正直な所、今回の決断を後悔し

てもいた。

「我慢出来るの」

「ああ、出来るとも」

「その体じゃ無理よ」

「どういう事だ」

「やせ我慢するなら、やせてからにしてよ」

2016年2月3日水曜日

第11話「バラのような」

恋人同士は互いに胸を弾ませ、愛に満ちた甘酸っぱい会話を交わす。しかし「結婚は

恋愛の墓場である」という余りにも有名な格言に詠われるように、結婚した男女が年

を重ねて行くと、何時しか愛が冷め、会話も冷めてしまうものだ。ただ希に、何時ま

でも恋人同士の様に甘い言葉で愛を確かめ合う夫婦もいる。

「あなた、愛しているわ」

「僕も君を愛している」

夫は妻を見つめ、腰に優しく手を回した。

「私って、綺麗だと思う?」

「ああ、君はいつ見てもバラのようだ」

「まあ、嬉しいわ。どんなバラかしら」

顔を赤らめる妻は、結婚前よりも太ってしまったけれど、変わりなく愛らしい。

「どんなバラかって・・・、豚バラに決まっているじゃないか」

2016年1月31日日曜日

第10話「貫禄」

優柔不断で頼りない男と、したたかで気丈な女の組み合わせというのは、バランスの

意味合いにおいて存外に相性が良いのかもしれない。そんな男女が夫婦になると、た

いてい旦那が嫁の尻に敷かれるものだ。

この夫婦も又そんな一組であり、結婚して十年になるが夫婦関係は極めて良好で、最

近は息子が小学校に入学したばかりである。

「お前、PTAの会長に選ばれたって本当か」

「ええ、そうよ」

嫁は照れ笑いを浮かべながら答えた。

「適任だと思うよ。だって、お前は貫禄があって頼りがいがあるからな」

旦那はそう言って、妻をまじまじと見る。

「そうかしら。例えば私の、どんな所が」

「決まっているじゃないか、お腹だよ」

2016年1月30日土曜日

第9話「新作」

作家、嵐山五郎の待望の書き下ろしが、間もなく完成しようとしていた。原稿用紙で

数百枚に及ぶ物語の出来栄えは、残りの数枚を如何に埋めるかにかかっている。

ーリアリティ、もっとリアリティがほしい・・・ー

ここへ来て、嵐山のペンの勢いがピタリと止まった。

「先生、そろそろ新作の発表の時期が近付いているのですが」

編集者の催促が、重圧として嵐山の肩に伸し掛かる。

それから数週間後、嵐山から原稿を受け取った編集者は、その出来栄えを絶賛した。

「先生、ラストの殺人シーンなどは正に天下一品です」

「やはり作家たるものは、究極のリアリティを追い求めるべきだよ」

嵐山はそんな言葉を残し、数日後に殺人の容疑で逮捕された。

2016年1月29日金曜日

第8話「幸運の宝くじ売り場」

閉店間際の宝くじ売り場に、タクシー運転手のY氏が駆け込んだ。

「まだ間に合いますか」

「大丈夫ですよ」

Y氏は数字を記入したロト6のマークシートを店員に差し出した。もう何年も買い続

けている数字である。そして百円玉を二枚置いた。

「危うく買い忘れる所だったよ」

「間に合って良かったですね。今日が抽選日です、当たりますように」

そして次の日、Y氏は再び宝くじ売り場にやって来た。

「実は昨日買ったロト6が一等に当選したので報告にと思って」

「まあ、買い忘れそうになっていたあの数字が、まさか当選数字だったなんて」

「それがね、昨日急いで買った当選数字と同じものを、実は別の日にも一つ買って

いた事に気付いて・・・」



2016年1月28日木曜日

第7話「指定席」

その朝、通勤電車に乗り込んだY氏は高熱に侵されていた。重要な取引が予定されて

おり、どうしても会社を休めなかったのだ。

何時もと同じ先頭車両は満員で息苦しい上に、ひどい頭痛と倦怠感が容赦なくY氏を

苦しめた。

ーもうこれ以上、立っていられない。どこかに空席はないかー

Y氏は車内を見回した。空席はどこにも見当たらないが、視線の先に何時もと同じ座

席に腰掛けている若者の姿があった。満員の車内でゆったりと、まるで指定席である

かの様に。

やがて苦痛に耐え切れなくなったY氏は若者に近付き、そして思わず声を掛けた。

「お兄さん、たまには席を譲ってもらえますか」

その声は、ガラス越しに見える運転士の耳には届かなかった。

2016年1月27日水曜日

第6話「落選」

小説家志望のY氏は、コンクールに毎年応募を続けている。いつも入選を果たすほど

の腕前があり、今回の応募作は主人公の鬼塚平八郎という凶悪犯を描いた自信作でも

あった。

今年こそは大賞か!と大いに期待をしたのだが、どういう訳か一次審査すら落選して

しまった。

何か応募に不備でもあったのかと思い募集要項を入念に読み直してみたが、特に形式

的な不備は見られなかった。

ただ、一つ気になる箇所があった。審査委員長の名前の欄には、確かに鬼塚平八郎と

記されていた。

2016年1月26日火曜日

第5話「歴史的な瞬間」

写真家のY氏がカメラを片手にタイムマシンから降り立つと、目の前では炎天下にそ

びえ立つ大阪城を戦場にして、鎧に身を包んだ何千人という兵士が激しく入り乱れて

いた。状況から察すると、どうやら大阪夏の陣であろう。

「お前は、何者だ」

風変わりな未来人のY氏に、すぐさま一人の武将が声を掛けてきた。まるで真田幸村

の銅像を思わせる風貌である。

「未来からやって来た者です」

「ほう、珍しい奴じゃ。何の用だ」

「写真を撮りに来たのです」

「写真だと」

「はい、あなたの姿が後世に残ります。もしや、あなたは真田幸村では」

そこへ敵陣が勢いよく攻め込んで来た。

「左様。上手く撮ってよ」

武将はそう言い残し、突撃を開始した。

2016年1月25日月曜日

第4話「ワインの香り」

「一緒に、ワインでもどう」

女はボトルを手に取り、男にそう勧めた。

「頂こうか」

女は二つのグラスにワインを注いだ。片方には、予め毒が塗られてある。

ー遊びだったなんて、許せないー

込み上げる女の怒り。男は不倫の末に、女を捨てようとしていた。

「どうぞ」

男はグラスを受け取り、匂いを嗅ぐ。

「いい香りだ。君のワインはどう」

男はそう言って女の手からグラスを奪い取り、匂いを嗅いで見せた。

「同じよ」

「確かに」

男は女にグラスを戻した。

「乾杯」

グラスを合わせ、ワインを飲み干す二人。すると突然、女が苦しみ始めた。

「一体、どういう事・・・」

「俺はプロのマジシャンだ。一瞬の隙にグラスを入れ替える事など、訳も無く簡単な

事さ」

2016年1月24日日曜日

第3話「僧侶」

とある寺院の講堂で、聴衆は名高き僧侶の講話に耳を傾けていた。僧侶の身を包む上

質な袈裟衣は、いかにも高貴な雰囲気をかもし出しており、その背筋はシャンと伸

び、高齢の割に足腰の方は達者に見受けられた。

「私は生への執着を断ち切った故、死を恐れません。だから、いつ死に直面しても、

私は心穏やかでいられるのです」

聴衆は皆ウンウンと頷きながら、僧侶の尊い話に聞き入っていた。

その時、いきなり地面が音を立て、グラグラと講堂が揺れ始めた。

「地震だ!」

誰かの声に促され、聴衆は一斉に立ち上がり、僧侶は講話を中断した。

「どけ、どけ」

僧侶は突然そう叫んで走り出すと、聴衆を押しのけて、我先に外へと逃げ出していっ

た。


2016年1月23日土曜日

第2話「廃品回収」

ある日曜日、よくある家族の風景が、そこにもあった。

昼過ぎだというのに、ゴロゴロと布団にくるまる夫。宿題を放り出して、ただゲーム

に熱中する息子。ベランダ越しに外を眺め、物思いにふける妻。

ーなんて、つまらない休日かしらー

妻は思い描いていた休日とは、まるで程遠い現実を嘆いた。

ー退屈な結婚生活なんて意味がないわー

そして妻は結婚を後悔した。そこへ、どこからともなくアナウンスの声が・・・。

「こちらは廃品回収です。古新聞、古雑誌、その他だらしのない亭主、勉強しない

子供を抱えてお困りの方は・・・」

確かに、そう聞こえてくる。

ー頼もうかしらー

妻はニヤリと微笑み、玄関の扉を開けた。

2016年1月22日金曜日

第1話「奇妙な偶然」

その夜、とある繁華街で雑居ビルの火災が発生した。

消火活動は思いの外に難航し、火の勢いは一向に弱まる気配がない。

そこを歴史学者のY氏が偶然に通りかかった。

ーまるで地獄絵図だー

Y氏が見守る中で、逃げ遅れた人たちが窓から次々と身を投げると、野次馬から悲鳴

が上がった。

その後、消火活動は夜を徹して続けられた。

翌日の新聞で、Y氏は火災による死者が113人である事を知る。

ー確か、あの場所は...ー

曖昧な記憶を辿りながら、Y氏が文献を開いて火災現場について調べると、そこは確

かに処刑場の跡地であった。

偶然か、それとも...。

処刑場には113体の生首が並んでいたという。