2016年8月26日金曜日

第90話「声」

その夜、Y氏と後輩は一台の車に乗って廃病院に到着した。二人は今日からこの場所で、見

張り役の警備を任されたのだ。

「先に君が入り口で見張りをしてくれないか。一時間経ったら交代しよう」

Y氏はそう言って車に残り、後輩は入り口に向かった。静寂の中で夜が深まって行く...。

やがて一時間が経ち、Y氏は車を降りて入り口へと向かった。

「交代の時間だ。何か異常はないか」

「はい、今のところは」

「先輩、それにしても気味が悪い場所ですね」

「確かに」

「ここで何かあったのですか」

「実は...、人がよく自殺している」

その時、二人はブルッと身震いし、そして自分たちの耳を疑った。

何処からともなく聞こえてきた第三者の叫び声...。

「早く見付けろよ」

2016年8月19日金曜日

第89話「女神」

警備員のY氏は、今日が某ビルディングでの最後の勤務だ。

Y氏には唯一の心残りがあった。Y氏と顔を合わせる度に、何時も感じの良い挨拶をするオフ

ィスレディがいる。せめて最後に一言をと思っているのだが...。

いつもの通りY氏がフロアーを巡回していると、偶然にも一人でエレベーターを待つ例のオフィ

スレディがいた。女神の粋な計らいであろう。

「私、今日が最後なのです」

Y氏が初めて声を掛けた。

「えっ、せめて連絡先だけでも教えていただけませんか」

思いがけない返答。人目に触れる前に、Y氏は急いでメモ帳に電話番号を記そうとした。しか

し途中でボールペンのインクが切れ...。その途端、満員のエレベーターが開いた。

ーとんだ悪戯だなー

Y氏は女神に失望した。

2016年8月12日金曜日

第88話「代弁」

Y氏の先輩に谷木という男がいる。谷木の楽しみは酒と博打、そして同僚の悪口を吹

聴する事だ。全く、しがないオヤジの悲しき末路と言えよう。

「谷木のオヤジ、早く定年退職しないかな」

同僚たちは口々に言った。

そんなある日、天の制裁が下る。谷木が咽頭癌で余命宣告を受け、自宅療養を始めた

のだ。Y氏は内心で喜びつつ、社交辞令で谷木の見舞に訪れた。

「早く元気になってくれればと...」

Y氏が声を掛ける。声の出ない谷木はアー、ウーと唸るばかり。

すると突然、脇にいた飼い犬がY氏に激しく吠え立てた。谷木は狼狽するY氏を眺め

ながら、何やら満足気でもある。

Y氏には、飼い犬の吠え声が何故かこう聞こえた。

「おい、心にも無い事を言うな」

2016年8月5日金曜日

第87話「革靴」

ある出勤前の朝、Y氏が玄関先で革靴を履くと、足先に違和感を覚えた。昨日の雨

で、履き古した靴の底から雨水が染み込んでいたのだ。乾かしている時間は無い。

ーそうだー

Y氏が思い出して押し入れを開けると、埃を被った靴箱があった。もう何年も昔に、

Y氏の就職祝いに母が買ってくれた革靴である。随分と履き古したが、今日だけの代

用なら事足りる。

蓋を開けて靴を取り出してみると、指先に革の弛んだ感触が伝わり、表面には見覚え

のない何本ものシワが刻まれていた。履き慣らした当時とは随分と様変わりをしてい

る。

Y氏は、まるで二重写しの様に、暫く見ていない年老いた母の顔を思い浮かべた。

―母に会おうー

Y氏は、そう思った。