2016年7月29日金曜日

第86話「360度」

”この教材で、あなたの人生が360度変わります”

そんな広告を目にしたY氏は、さっそく妻に相談した。

「俺は成功して人生を変えたい」

「あなたが、そこまで言うのなら」

妻が給料の3か月分を工面し、Y氏は教材を購入した。

ーこれで俺の人生が360度変わるー

Y氏は熱心に教材に取り組んだ。しかし、人生は何も変わらなかった。

そんなある日、宿題で頭を抱える息子にY氏が声を掛けた。

「何か分からないのか」

「パパ、この問題が解けなくて」

「どれどれ...、時計の秒針は5秒で30度進みます。では1分後に秒針はどこに移動

しますか?なんだ、簡単じゃないか。1分たてば360度回って同じ場所だよ」

「何も変わらないって事だね、パパ」

2016年7月22日金曜日

第85話「ある殉職」

その朝、ヒロシの携帯が鳴った。

「母さんだよ、元気かい」

「元気だよ。もう仕事に行かなきゃ」

珍しい母からの電話。短い会話の後、ヒロシはマンション建設の現場に向かった。

新人警備員のヒロシは、クレーンの積み荷の下で安全管理を行っている。その日は風

が強い。ヒロシが見上げると、吊り荷がひどく風を受けていた。

ー危ない、落ちてくるー

そう思った瞬間、バランスを崩した吊り荷の鉄骨がヒロシの頭上へと降り注いだ。ヒ

ロシの体は幾つにも切り刻まれ...。

「おい、大丈夫か」

作業員が駆け寄り、刻まれたヒロシの体が拾い集められ、そして復元された。変わり

果てたヒロシに発せられた、叫びにも似た声。

「直ぐに救急車が来る、諦めちゃ駄目だ!」

2016年7月15日金曜日

第84話「ポメラニアン」

ー騒がしいポメラニアンだー

新居に移転したばかりのY氏は、向かいの飼い犬に悩まされていた。飼い主が留守の

時には寂しがって何時間も吠え続け、来客がある度に激しく吠え立てる。小型犬特有

の、その甲高い吠え声を聞くと不快極まりない。

耐え兼ねたY氏が苦情を入れると、飼い主は対策を考えておくと答えたが一向に改善

は見られなかった。

その上、Y氏が苦情を入れる度に向かいとの関係が悪くなって行くばかり...。

ーもう、耐えられないー

僅か三か月余りで、Y氏は再び移転する羽目になった。

そして新居に移った当日、Y氏は向かいの家へ挨拶に伺い玄関のチャイムを鳴らし

た。

住人がドアを開けると、Y氏に向かってポメラニアンが激しく吠え立て...。

2016年7月8日金曜日

第83話「酔客」

師走の夜、Y氏は空いた列車の座席に腰掛けると、赤色のマフラーを外して無造作に

座席の脇に置いた。

そこへ一人の酔客が乗り込み、Y氏の正面に座った。酔客が放つアルコール臭がY氏

の鼻を突く。

―少し離れて座ったらどうだー

Y氏が嫌悪感を示して酔客を睨み付けると、互いの目があった。

「何か文句あるのか」

酔客は、そう言いたげでもある。車内に険悪な雰囲気が漂う。

やがてY氏は列車を降り、改札へと向かった。やけに首元が寒い。すると、後ろから

足音が近付いてきた。振り向くと先程の酔客である。

―逆恨みかー

Y氏が身の危険を感じて走り出すと、酔客はその後を追いかけて大声で叫んだ。

「おい、忘れ物だ」

酔客は、赤色のマフラーを手にし...。

2016年7月1日金曜日

第82話「空飛ぶ少年」

「わーい、雪だ」

小学一年生の翔太は空を見上げた。勢いよく舞い落ちて来る牡丹雪を眺めていると、

まるで自分の体が空へと吸い込まれて行く様な錯覚さえ起こる。翔太は空飛ぶヒー

ローさながらに、空へ向けて両手を伸ばした。

ーまるで、空を飛んでいるみたいー

そんな幻想に浸っていると、突然、翔太の足が地面から浮き上がった。

「あっ」

翔太は声を上げた。幻想は現実となり、翔太の体は空高く昇り始めた。見下ろせば、

何もかもがミニチュアの様だ。

それから、どれくらい高く昇っただろうか・・・。やがて雲の切れ間から青空が見え

始めると雪の勢いは衰え、そして翔太の視界から雪が消えた。

「あっ」

翔太が再び声を上げた時、その体は重量を帯び・・・。